和紙の美
想へば単純な材料に過ぎない。それなのに眺めていて惹きつけられる。手
漉きの和紙はいつだとて魅力に満ちる。私はそれを見つめ、それに手を触れ、
言い難い満足を覚える。美しければ美しいほど、かりそめには使い難い。余
ほどの名筆ででもなくば、紙を穢すことになろう。そのままでもう立派なの
である。考えると不思議ではないか。只の料紙なのである。だが無地である
から、尚美しさに含みが宿るのだとも云えよう。良き紙は良き夢を誘う。私
は紙の性情を想い、その運命を想う。
何処からその美しさが出て来るのか、いつものように私はそう思索する。
詮ずるに質が有つ美しさなのである。そう考えてよいであろう。もともと質
が良く、それが手漉きで活かされる時、上々の紙に生まれ変わる。質とは何
なのか。天与の恵みなのである。その恵みが滲み出ているものほど美しい。
そういって謎は解ける。
なぜ手漉きだと紙が温かくなるのか。なぜ自然のままの色には間違いがな
いのか。なぜ太陽の光で干すと紙味が冴えるのか。なぜ板干しだと一段とよ
いのか。なぜ冬の水が紙の質を守ってくれるのか。なぜ耳附がしばしば風情
を増すのか。真理は自から明らかなように思える。天然の恵みがその際に一
番温かく現れるからである。自然がその深みを匿すことなく示すからである。
自然の力がまともに感じられると、どの紙も美しいのである。手漉きの美し
さを、そう考えて筋が通る。
紙には私がない。そのせいか誰だとてこの世界には憎みが有てない。そこ
には親しまれる性情が宿る。顧みない人は無関心であろうが、近づく者は、
離れ難い結縁を感じるであろう。私は私の愛する紙を見せて、人々に悦びを
与えなかった場合はない。見れば誰も見直してくれる。良い紙は愛をそそる。
これで自然への敬念と美への情愛とを深める。
それにここでも日本に会う悦びを受ける。どこの国を振り返って見たとて、
こんな味わいの紙には会えない。和紙は日本をいや美しくしているのである。
日本に居て和紙を忘れてはすまない。
紙をどれだけ多く使うか、これで人は文明の度を測る。だがそのことは量
につながる。それよりどんな質のを使っているのか。それで心の度を測るべ
ユカリ
きではないか。悪しき紙と良き文化と果たして縁があろうか。とりわけ日々
手にする書簡箋や、著わす書物や、それ等のものにどんな紙を選んでいるか。
手近な紙で、国民の平常が忍ばれよう。和紙をなおざりにする者は、美しさ
をもなおざりにする。
私達は今果てしなく粗悪な紙を左に見、限りなく美しい紙を右に見るので
ある。何れを選ぶかは持主で分かれる。持物と持主とは二つではない。人は
いつだとて良き選び手でなければならない。
今の人は紙を粗末にする。粗末にしてもいい紙が殖えたからに因る。或は
又、正しい紙を求める心が弱まったからと説く方がよいかも知れぬ。だがか
オロソ
くまでに紙を疎かにあしらう暮しに、幸福があろうか。物を疎かに扱う心は、
避けられるだけ避けたい。道徳のためにも美のためにも、望ましいことでは
ない。荒々しい扱いには、感謝の心が添うていないからである。
なぜ今のような不幸な事情が醸されたのであろうか。和紙が衰えたからで
ある。代わって洋風の紙が妄りに蔓延ったからである。純和漉ならどんな紙
でも醜くはない。だが多くの人はそれを後れた品とのみ判じたのである。改
良は急がれて了った。だがその意図が結果に於いて、どんなに和紙の質を痛
めたか知れない。今出来のものがとかく悪いのは、長年の伝統に背いたから
である。それに営利の念が惜しげもなく美しさを棄てたからである。なぜ歴
史を活かして、新たなものを開かなかったのであろうか。伝統に立つより安
泰な基礎はない。この伝統を活かせば、紙に於いて日本は無敵な筈である。
どんな和紙でも美しいと云えば云い過ぎると詰られるかも知れぬ。それな
ら私は躊躇はせず答えよう。昔の和紙から醜いものを探し出して欲しいと。
それは不可能なのである。それほどに美しさを約束する漉き方で作られてい
たのである。だから今漉きのものでも伝統に頼るものは手堅い。どんなもの
も病弱ではあり得ない。そこには微塵も偽りの性質が許されていないのであ
る。歴史を背負う手漉の和紙に決して誤謬はない。只どれが他より更に美し
いかの問いが残るだけである。
ガンピ コウゾミツマタ
雁皮と楮と三椏と、これが紙料の三位である。これ等の三つの繊維に綾な
すものが、もろもろの和紙である。
雁皮は上位を、楮紙は右位を、三椏紙は左位を占める。その品位と潤沢と
威信とに於いて、雁皮の美は比類なく、その生命は永劫である。柔剛、虚実、
ここに凡て相会う。この世の如何なる紙もこれほど気高くはあり得ない。楮
は紙の国を守る男性である。繊維太く強靭である。荒い仕事をもよく耐え忍
ぶ。これあるがために和紙に今も勢いがある。楮なくば紙の世界は如何ばか
り力を失うであろう。これに比べ三椏は紙境を柔らげる女性である。どんな
キメ
紙もこれより優雅ではあり得ない。肌理細かく膚柔らかく、性穏和である。
三椏なくば紙は風情を減ずるであろう。
雁皮と楮と三椏と、三者が相助けて和紙の生命を守り育てる。物に応じ好
みに準じて、人はその何れかを選べばよい。何れを選ぶも和紙の美には廻り
会える。
タメズキ ナガシズキ
溜漉と流漉と、今ではこれが抄紙の二法である。古くは一如であったが、
時と共に二つに分かれた。今は「細川」の如きにその歴史が読める。溜漉は
止まるに待ち、流漉は動くに委ねる。静動の二、相携えて和紙の世界が育て
られる。前者は静に繊維を溜めて、厚みを求めるのである。水は速やかに下
に垂れて、紙の層のみが残る。越前の「鳥の子」はこの法でその名を成した。
だが溜漉は日本だけの法ではない。和紙の漉き方で、誰も驚くのは流しの
手法である。箱舟の中に簀を組んだ桁を入れ、料液をその上で流動させる。
手の動きの方向につれて、繊維は並び、搦み、重なってゆく。好む厚さを得
た時、捨水の鮮やかな所作で終わる。凡ては手の奇蹟なのである。手技なく
して流漉はない。手漉なる言葉が、相応しい所以である。「仙花」「書院」
「石州」その他、名を成した多くの和紙が、この漉き方で出来た。
だがここで不思議な役割を勤める者がある。黄蜀葵(ととろあおい)の功
徳である。これがなくば流漉はない。誰が見出したものか、根から得る透明
な粘り強いその液が、紙を紙たらしめる介添である。この不思議な粘液こそ
は、繊維をよく水中に浮遊せしめ、漉いては料液の流れをゆるめ、その搦み
合いに度を与える。捨水の際は塵を奪い、簀を離れては、積み重なる紙をさ
ばき易くする。これが手の自在な動きを助けて、紙に美しさと強さとを兼ね
与える。ここでも自然の神秘な備えに驚きの眼を見張らないわけにゆかぬ。
神に助けられつつ人の作る紙をのみ、紙とこそ正しく呼ぶべきである。
過去に見事なものがあったのは言うを俟たない。だが現在でも、見事なも
のを得ることが出来、又産むことが出来る。衰えたとは云え、手漉の仕事場
が、そこここに今も絶えない国が日本の他にあろうか。だから行く末、もっ
と優れたものを創り出すことが出来よう。拓くべき余地がまだ終わりなくあ
るからである。希望は私達を勇気づける。昭和のこの年から面目をいや増す
ことが出来るであろう。法を継ぎ、法を活かせば、不可能なことでは決して
ない。志があれば歴史を目前に転向することも出来よう。私はそれを信じる
者の一人である。
どうあっても和紙の日本を活かしたい。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『工芸』28号 昭和8年】
(出典:新装・柳宗悦選集第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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